「形式的考え方」


〜2、パターン。


この場合の「形式」とは、見えるもの、型にはまったもの、カタチというのが規則的にパターン化されたものである。規格と分類区分、思考の(カテゴリー)にピッタリおさまるもの、という意味である。だからこそ、誰にとってもわかりやすく、納得しやすいのである。

こうした形式的な考え方というものは、人間の感じ方(感性)についても同じことが言える。テレビの役割がそれである。だれだってラクしてイイ思いがしたい。できれば他人よりも、ほんの少しだけでも。そうした思いをかなえてくれるのが、この「形式的」な考え方と感じ方なのである。

だから、「形式的」というのは、とても大事なのである。それはちょうど宗教のようで、大衆をまとめあげてプログラムして行くのに、ちょうどよい技術なのである。何もないのを、何かあるように思わせるのに、ちょうどよいのである。そして、それで大衆も納得するのである。

それはまるで宗教のようで、だれもがそうだと思い込めるし、信じさせてもくれるし、納得と確信と了解を与えてもくれる。そうした共通の合意を成り立たせるものである。なぜなら、現実に目に見えるカタチとして存在するものだからである。だから、だれも疑うことがない。疑うことが出来ないし、またそれを疑う者は完全に頭のおかしい人間と思えてくるし、また、そのように接してくるのである。

このような既存の、あるがままの現実に疑問を抱く者、こうした者はストレートに言うと、異国人、頭のおかしい人間、わけのわからない人間である。よそ者、外の人であり、世間から見るとまさに、見知らぬ人なのである。係わりあってはならない人なのである。

他の言い方をすると、このようなよそ者とは、社会から見ると、自分の居場所を喪失した人間、自分自身の意味とか理由を見失った人間である。だから、そういう人間はだれも相手にしないのである。

もどる。              つづく。