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祖先の記憶とは、自己の無意識の感覚、あるいは、感覚の感覚とでもいえるものである。それは、感覚が意識を無視して、ひとりでに習慣化し、条件反射化し、パターン化・様式化された「感じ方」である。感覚自体が、自分自身でその感じ方といったものを、特殊化し、最適化し、様式化させてゆくのである。 だからそれは、自分でも意識されることのない無意識の世界、あるいは、肉体の記憶とでもいったものなのである。そしてまたそうしたことが、雰囲気や気分、そしてまた情緒の根底にあると思えてくるのである。 それは理屈でも、思考でも、意識でも、あるいは言葉でも、とらえることが出来ない。そうした、観念の世界の出来事ではないのである。それ以前の、感覚そのものの感じ方の次元なのである。感覚から意識が分離される以前の、感覚の感覚に対する感じ方なのである。 そして、こうした感覚の感じ方こそが、自然で本来ありうべき感情や精神的状態、すなわち「情緒」といったもので、そうした「空気」や雰囲気、そうした気持ちのうちにこそ、本当の意味での信頼や信仰、正義や礼節といったものが生まれてくるのであり、成り立ち得ると思えてくるのである。そして自覚され確信もされてくるのである。それは、自分でも預かり知らない無意識の、生理的情緒の世界なのである。 自分がいま生きている現実世界のルールやマナーが、当然の疑うべからざるのものと思えてくるのである。もちろんそれが真実に正しいかどうかは、まったく別の問題なのであって、大事なことは、そうやって世の中というのが成り立ち、誘導されて行くということなのである。 それぞれの民族の政治やシステムは、このようなその「種」特有の無意識の信仰、ないし「情緒」を通してしか理解されず、また、受け入れられることもないのである。これがすべての根源であり、背景となっていて、人間が生きて行く現実の地平でもあって、人間が生きて行く舞台となっているのである。 |
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