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古代ギリシャの根拠は、個人の自由と社会のシキタリが、みごとに一致している点に認められる。このような社会では、政治システムは民主政体以外に考えられない。政治体制と個人の生き方・感じ方・暮らし方といったものが、同じものとして一体化しているのである。なんら区別されることなく、区別することが出来ずに、同じものとして人々の暮らしと意識を支配している。 だからまた、それに気づくことも、意識することもなく、自覚するということがないのである。「一体化」しているということは、外からでないと、自分自身というのが見えて来ないのである。区別のない「一体化」というのは、自分で自分を見ることが出来ない場所にいるのである。知ることも、気づくこともなく、そうしたキッカケや場面そのものが無い世界なのである。 政治体制は、外から無理やり強制出来るものではない。なぜなら、政治体制は個人と社会とを統合した不可分の統一体だからである。ちょうど、精神と肉体が同じところから来ているように。 だから、それに気づくということがなく、反面、気づいてはならないことなのである。自分自身の存在そのものに疑いをいだき始めるからである。だからまた、こうした人間は、社会全体から忌み嫌われ、憎しみと蔑みの目で見られ、押さえつけられ、隔離され、排除される。だから、それは気づいてはならないことなのである。それは、社会の中から見ると「災いのタネ」なのである。 それは、見ても、聞いても、触れてもならないことなのである。見えていても、見てはならないことなのである。知っていても、知ってはならないことなのである。そうやって、社会が成り立っているのである。それに気づくということ、知るということは、社会の存立の基盤を破壊してしまうのである。 自分たちの存在理由が消えて無くなる。現実がすべて、ヤラセの偽りになってしまう。自分自身に対する自意識と、現実に対する認識が成り立たなくなる。現実がすべてウソとマヤカシに見えて来る。自分が生きているのが、何かわけの分からないものに思えてくる。 |
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