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それはある意味で必然なのであって、そうした、人間とは本来別のところにあるはずの、自然環境といったものが、人間の意識の現実の出発点となっているのである。 このような現実といったものから、例えば東アジアでは、個人意識を排除する儒教が必然のなりゆきなのであって、あるいはまた、西洋においては、自己意識や人格・人権の概念が不可欠の必然となっているのである。 これは、人間の存在の仕方なのであって、このような自然環境と自意識が融合されたところに、人間の生き方というのが成り立つのである。また概念や、意識の観念化・抽象化が成り立つのである。 それは自己の一体性であり、全体性、そして時間的な連続性である。ひとことで言って、それが自己の内的同一性なのである。 |
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