( 市)ルネサンスへ<2015-0717-a
光の導くところ。
太陽の光を感じるは、自分が目を開いているとき、 めざめているときである。しかし、目を閉じた夢の中でも光は感じる。 そうでないと、ものが見えず、夢が見えない。だがしかし、それは、 太陽の光ではない。なぜなら、そこには影がないからである(そして、 足元もみえない)。ものを照らす光に方向性といったものがない のである。 これが、夢の中の世界である。つまり、一人ぼっちの、 閉じた世界である。だから、方向性も、指向するところも、 目的といったものもあいまいで、支離滅裂で、思いつきと気まぐれ、 その場かぎりの情緒とか気分だけが支配している。 思考するとか、筋道を立てて考えるということがないのである。 考える必要もないし、考えてもどうにもならない世界に生きて いるのである。 現実の世界では、太陽の光は方向性を示していて、 それは、時間を意味している。 方向性とは、時間とともに変化する形であって、 時間の概念のないところに、方向性などない。 現実の方向性とか、風景のなかの、様々なもの自体が持つ、 内的な指向性も、それが、時間的な経過をたどることによって、 はじめて理解されてくるのである。 そして、それはまた、日本における四季の生き物たちの生き方や、 暮らしにも、大きく影響している。生理的・感覚的な感じ方や 受け止め方、そしてその変化のパターンに深く関与している。 というよりも、それと交流して一体化し、 そこから感覚や行動の様式が定められてきたのである。 それは、必然であり、生き物たちが指向する根源なのである。 |