(  市)ルネサンスへ<2015-0828b 理想社会、


4、理由。


だから、結論としていえるのは、
自己意識というのが確かにあるのではあるが、
ただそれが限りなくあいまいで、ぼんやりしていて、つかみどころのない、
非常にぼやけたものになっているということである。ここでもまた、
自意識というのが、外面と形式だけのものになっていて、
内面を伴わない、空洞化したものになっている。

しかし、それにしても、なぜいつもそうなのか?
外面の体裁だけでものの良し悪しがいつも勝手に判断されて、
内実としての内面が、どうしていつもないがしろにされるのだろうか?
それはつまり、私たちというのが、そして日本というのが、
恵まれ過ぎているからではないだろうか。

自由といったもの、創造性や自己実現、ないし、アイデンティティーや
自己の存在理由といったもの。そうした自分のすべてが、
自分に属するすべてのことが、他人から与えられ押し付けられている。
この他人とは、日本という共同体の意思であり、オキテとしての
上下関係の絶対的強制力なのである。

自分というのが、権威という他者によって生かされ、
動かされているのである。自分というのが見えなくなってるのである。
そしてそうしたことに気づかなくても生きてゆける社会なのである。
むしろ、気づかないから生きていけるし、そしてまた、
それが成り立つ社会なのである。

それは、目隠ししたまま、人々を理想郷へと誘導してゆくようなものであ
る。なにも知らないまま、青年を経ることなく大人になるようなものである
。それらすべては、自分の判断と責任、自分の自由とリスクによって
獲得されたものではないのである。だから、自分のものではなくて、
他人のものなのである。それらすべてが自分の肉体、自分の経験と記
憶、そして、自分の人生の中で起こった出来事なのであり、自分のこと
な、であるが、それでもやはり、自分のものではないのである。

自分のものであっても、自分のものではないのである。
そしてまたこうしたことが、私たちが「恵まれすぎている」という意味なので
ある。自分を見失い、何も見えなくなっていて、そしてそれに気づかなく
なっているのである。それに気づかないから生きて行ける社会なのである

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