index < 日誌 < aqまやかし< 「様々な角度」p6/


 
4、後ろ。



かといって、「後ろ」から見る顔でもない。そもそも、後ろに顔などない。後ろから見える顔というのは、髪の毛と首筋しか見えない。だから、それが誰かとわかるような姿でもないし、本人の特徴も個性も曖昧で、なにも見えて来ないすがたである。それは、だれにでも共通するすがたであって、本人が誰なのか分かるすがたではないのである。だからまた、それは後ろ姿でもなく、僕にとっての彼女は、やはりヨコ顔だったのである。

後ろすがたというのは、個性のない、本人の特定のしようがない、だれでもかまわないし、誰にでもなりうる、そうした象徴としての女性の姿になり得るものである。だから、だれにでもなれるし、様々に理想化され得るし、偏見でもって見ることも出来るものである。

そうした現実離れした空想にしかならない世界である。従って、それが現実になるためには、やはりヨコ顔か正面の顔でもって、それがだれなのかが特定されなければならないのである。だから僕は、そうして、いつも見ている彼女の後ろ姿に、彼女とは別の、僕にとっての空想上の彼女、非現実の、理想化された象徴としての彼女を見ていたのである。

彼女が僕にとって現実の存在になるには、やはり後ろ姿ではダメで、かとって、なんの変わり映えのしない現実的すぎる、あまりに所帯じみて生活のニオイのする、少しも面白くも楽しくもない「正面」でもダメで、やはり、「ヨコ顔」がもっとも僕にとっての彼女らしいすがただったのである。

戻る。            続く。


index < 日誌 < aqまやかし< 「様々な角度」p6/